久しぶりに服を買った。
昼過ぎ、女子校の頃の友人と神戸で待ち合わせてお茶を飲みに行った。
その後特に予定も無かったので服を見にいく。お互いに「服を見るなんて久しぶりや」と口々に言い合いながら。
駅前のデパートの自動扉をくぐる。くらっとくるほどまぶしい照明。それだけで気持ちがたじろぐ。
中心のエスカレーターにカップルや同世代の女の子たち。服屋のお洒落で可愛い店員さん。
皆きらびやかに見える。なんだか遠くの世界に住んでいるように見える。みんなやけにちゃんとしているように見える。
色んな店舗をぐるぐるとまわって、コートやセーターを少しさわったりする。
色々と見れば見るほど、何が欲しかったんやっけな、とぼんやりとした気持ちになる。
どれも綺麗だったり可愛かったりするけれど、自分とは関係のない物だな、と思ってしまったりする。
ふと友人が言う。「何を見ても昔みたいに『欲しい!』って気持ちにならへんようになった。あの欲しくて欲しくてたまらんかった気持ちはどこにいってもたんやろうなぁ」
学生時代、服は見れば見るほど欲しかった。何か買えばこれに合わせるにはこんなのが欲しいな、と四六時中考えていた。学校帰りに色んなファッション雑誌を立ち読みするのも大好きだった。
しかし私は、年々何が着たいか分からなくなっている。生き方そのものを見失うように。
新しい服を一枚買ったところで別にどこに行くわけでもない。誰に会うわけでもない。そんな冷めたことを思ってしまったりする。
少し前まで服を買うこと自体にワクワクしていたのに。
行ったことないところ。会ったことない人たち。まだ見ぬ世界。これから私は何にでもなれるし、どこにでも行ける。
そんな気持ちはいつの間にか薄れてしまい、今はただ自分の現実から目を背けたくなる毎日だ。
それでも、わたしは今日こうして服をみに来た。新しい何かが欲しいと思って。
よし、コートを買おう。ちゃんと暖かくて気に入ったデザインのものを探そう。
いつもなら無難に紺色を探すが、母の「冬は黒とかグレーとか暗めの色のコートの人が街中に溢れるけど、いろんな色があるのにもったいないやん」という言葉を思い出し、出来るだけ明るい色を着ようと思い直す。
でも明るすぎる色は気持ちが負けてしまう。やっぱり紺色かな…と思ったあたりで、青みがかった薄いカーキ色のダウンが目に入る。
軽くて暖かそう。色味も綺麗。試しに羽織ると横にいた友人が「似合ってるで」と言ってくれた。
会計をして、コートが入った紙袋を持って店を出る。明日から新しいコートが着れるな、と思うと嬉しくなる。
ぼんやりとしながらも、いろんな気持ちがうやむやになりながらも、わたしは新しいコートを買った。
寒い冬をなんとか楽しく過ごしたいな。出来ればしゃんとしたいな。またあの人にも会いたいな。どこかでそう思えている。
だからまだ大丈夫。これからも大丈夫。
まだまだ私たちは色んなところに行ける。そう思いながら友人と神戸の街を歩いた。
政治のことを考えるといつもモヤモヤしてしまう
ウーマンラッシュアワー 村本さんのTHE MANZAIのネタのことを時々思い出す。いつもふと思い出してはモヤモヤしてしまうから、今更すぎるけれど、自分なりに感じたことを書いてみようと思う。
村本さんの、普段腫れ物のように扱われている類の時事ネタに対し、間髪入れずに斬り込んで捲したてるあの芸風、批判が目立った反面、日頃から政治的関心が強い人には賞賛されているような印象を受けた。
私は正直賛否のどちら側にも立てない。でもハッとさせられたのは事実だ。
まずこれは常々感じていることなのだが、政治的発言をしただけで思想が偏っているだとか厄介な奴だと煙たがられてしまう世の中の風潮は不自然でしかない。
「政治は小難しい大人達のよく分からない話で、自分とは関係がない」という発言をよく耳にするが、そのような心理状態は独裁を望む権力者の思う壺であり、政治的無関心を続けることにより知らないうちに自分の生活の自由さえ侵食されてしまいかねない。
だから村本さんのあのネタは、物議を醸したといえども、地上波で、しかも視聴者に比較的若者が多い番組で放送されたことにより、お茶の間に考えるきっかけを投げかけた点では評価できるんじゃないかと思う。
ただあれは漫才だったのかと言われたら首を傾げてしまう。笑い云々は差し引いて考えるとしても、ニヒリズムを押し出しただけの話題性を狙った表面的な批判のように見受けられなくもない。
権力に対しての批判は必要だ。しかし安易に誰かや何かを糾弾したり攻撃するような口調は、私は避けたい。刺激の強い発言や煽るような態度が崇められる雰囲気もある意味危ない。だから手放しに村本さんの芸風を賞賛するのもなんだかしっくりこない。
でも一つ言えるのは個人の尊厳や人権が危ぶまれるような間違った権力の横行は絶対に止めなければならないし、その為なら多少はセンセーショナルな方法を取らざるを得ないのかもしれないとも思う。
私自身このようなことを書きつつ、普段の生活では冷笑されることを恐れて政治的発言を控えたり濁してしまうことがしばしばある。
モヤモヤしてしまうのは世間体を気にして臆病になってしまった自分自身の煮え切らなさに対する思いからくるのかもしれない。
私は結局この話題に対しての正解が分からない。
くたびれた星
仲良くなり始めの夏の終わり、誕生日の話になった。その人の誕生日を聞くとわたしと日が近かったから、それを伝えるとおめでとうって言い合おうと喜んでくれた。
翌日にその人がとある海外キャラクターが大好きだと言っているのを聞いて、わたしもそのキャラクターのことが好きだと返したら、じゃあお互いの誕生日の日が近づいたらプレゼントし合おうと少し盛り上がった。
秋頃にふとその人の車の鍵のキーホルダーをみてみたら、そのキャラクターが星を持っているものだった。可愛らしいなと思って手に持って眺めてみると、長年つけ続けているからなのか、それは随分へたってくすんでいた。
何日か経って帰り道に久しぶりに駅の近くの雑貨屋に寄ると、隅っこのほうにそれとおんなじものが売っていて、他にもそのキャラクターがハートを持っていたりクローバーを持っていたりするものがぶら下がっていた。
何を持っているものをあげるのがいいのかなあ、と雑貨屋の前を通るたびに考えあぐねていたら、いつのまにか冬になった。
寒さが増すに比例してその人はわたしから距離を置くようになった。きっとわたしのせいなんだろうと思った。ジェットコースターのような情緒が急降下してる時に限って連絡してしまっていたのがいけなかったんだろうと思った。
でも誕生日には元どおり仲良くできるかもしれないと淡い希望を抱いていた。結局おめでとうという一言さえなかった。
壊れてしまったらもう元に戻れない。壊したのはわたしだからもうどうしようもないんだけれど、今はまだその雑貨屋の前を通るたびに思い出してしまう。でもきっと、わたしはそのうち忘れてしまう。
鍵にぶら下がったキャラクターがそっと持っていた星はくたびれていて、それはいつも疲れた顔をしながらも何か掴みたそうにもがいているその人自身のようだった。
もう少しで終電の駅に着く
靄の中
東京の台湾料理
どうしても聴きたい講演があって、日帰りで東京に行ってきた。本当は一泊するつもりだったんだけど。